中村正規の「半導体業界を語る」
第12話 「インテルとモトローラ(その2)」
インテルの利益を超える売上を達成する会社は?
かつてのモトローラは?

今年の5月、昭和40年代の半ば、設立間もないモトローラの半導体部門の日本子会社に勤務していた有志による懇親会が開催された。この会は毎年1回開催されており、私はその幹事役を引き受けているだが、今年も多くの元モトローラ従業員が全国から駆けつけて来た。参加者の多くはそう長い期間にわたって、モトローラに勤務したわけでもないが、モトローラに勤務した時代のこと忘れられず、かつての上司や同僚に会えることを楽しみにこの会には毎年多くの人が集まって来る。この時代のモトローラは、多くの従業員にとって、働きやすい、また印象に残る職場だったのであろう。

私に半導体業界に入るきっかけを与えてくれたのがモトローラだった。私は地元の設立された国立工業高専の1期生として国の期待した中堅技術者の道を目指したのだったが、卒業後に就職した電気メーカでの単調な工場勤務が肌に合わず、別の仕事を探していた。
当時、モトローラはまだ日本に進出して間もない外資系企業として、人材の獲得に苦労していたのではあろうが、能力も将来性も未知数で大して英語も話せない若い私をセールス・エンジニアとして採用してくれたことには、今でも深く感謝している。私が外資系企業に転職すると聞いた前の職場の先輩や上司は「外資系企業は人間関係が冷たいよ」と忠告してくれたのだが、実際に私が勤務したモトローラという会社は、私にはとても快適な職場であった。確かに、モトローラでは、各部門、各個人に与えられた権限と責任が明確にされていたが、「人間関係が冷たい」こともなく、むしろ日本企業よりも従業員をとても大事にする雰囲気のある会社であった。大学を出ていない若年の私にとって、給与が学歴や年齢、経験年数だけで決定されないことは、もっとも快い、また歓迎すべきことでもあった。

私は、モトローラ時代に多くの先輩達から半導体ビジネスの「いろは」や仕事に対する考え方などを学んだ。モトローラの米国本社からは、製品のプロモーションやトラブル・シューティングのために多くの外国人が日本を訪れ、私は彼らと客先をたびたび訪問した。その中には、後にモトローラ本社の社長にまで昇進したゲイリー・トゥッカー氏や、私の現在のビジネス・パートナでもある、スティーブ・ジーロム氏もいた。当時のモトローラ製品の中心は、各種のディスクリート製品の他、ECL、DTL/HDL/TTLのロジック、工業用および民生用のリニアICなどのバイポーラ・プロセス製品で、MOS製品に関しては競合メーカに比較して立ち遅れていた。

私は主に民生電子機器向け半導体の営業を担当していた。モトローラが最初に開発したダーリントン・パワー・トランジスタを大手音響メーカのプリメイン・アンプの出力段に採用してもらったことや、大手アマチュア通信機メーカの144MHz SSBトランシーバに高出力のRFパワー・トランジスタを採用してもらったことなどが、今でも鮮明に思いだされる。ただし、当時の半導体には問題も多く、品質、納期、信頼性などで私は数多くのトラブルにも遭遇した。この頃、モトローラでは、標準品であっても日本に在庫を置くことはなく、民生機器メーカの短納期に対応することは、かなり困難な仕事であった。また、モトローラ本社とはテレックスという、現在では想像もできない通信手段しかなく、これらトラブルの解決には大いに苦労したのだが、私にとってモトローラ時代はとても充実した忘れ難い、良き青春時代であった。私はその後に半導体商社を設立し、モトローラ時代の同僚達と共に苦労を分かち合うことにもなった。

モトローラの回り道
私の充実したモトローラ時代は不幸にも長く続くことはなかった。当時、モトローラの最大のライバルであるテキサス・インスツルメンツ(TI)社は、ソニーとの合弁の形で日本にすでに生産工場を保有していた。モトローラは、TIと同じように日本に生産拠点を確保することを望んでいたが、この時代の日本では政府による国内産業の保護政策から、外資100%の生産子会社の設立が認可されていなかった。このため、モトローラも日本での合弁のパートナを探した。最終的にモトローラが合弁のパートナに選んだのは、親しい取引関係にあったアルプス電気であった。アルプスはモトローラの民生機器部門(後に松下へ売却)などにチューナや多くの電子部品を納入していたし、カーラジオ/カーステレオの分野ではモトローラとの合弁会社(現在のアルパイン)を日本にすでに設立し、モトローラとは特別な関係にあった。

アルプスとの合弁会社が設立され、日本での半導体生産が開始されること自体は私にとっても大いに歓迎すべきことだったのだが、モトローラの合弁会社は、形式的なソニーとの合弁を行ったTIのケースとは異なり、合弁会社の運営にアルプス側からも多くの社員が参加することになった。その結果、私を含むモトローラ側の従業員もアルプス電気の従業員規則に基く新しい雇用形態に移行されることになった。残念なことに、私の身分や給与も当時の日本的な慣習であった学歴、年齢、経験年数を基準に決定されることになってしまった。まだ若かった私は、こうした決定に反発して合弁会社には残らず、退社する道を選び、インテルに移籍した。また、このような日本的な雇用形態に同意できないモトローラの従業員も、合弁会社への移行と共に退職し、多くの人材が流出する結果となった。これは、忘れもしない1973年の夏のことであった。

アルプスと合弁会社によるモトローラの日本における半導体工場の建設計画は順調にスタートしたように見えたが、そこに思いがけない事態が発生した。いわゆる「オイル・ショック不況」の到来である。既存のビジネスの維持が困難になったアルプスには半導体工場建設のために膨大な投資を行う余裕もなくなり、アルプスとモトローラの合弁事業は、わずか3年足らずで解消される憂き目となってしまった。結局、モトローラは日本に半導体工場を持つことができず、暫くは海外工場の製品を輸入して販売する形態に逆戻りした。その後、モトローラは東光が福島県会津に保有していたMOSプロセス工場を買収し、念願の日本での生産拠点を手にすることになったのだが、この間の合弁会社への移行と解消には大きなエネルギとお金を消費し、日本市場でのシェア確保には大きな回り道をする結果になった。

モトローラと日本企業の共通点
以前にも述べたことがあるかもしれないが、数年前までのモトローラと日本の大手企業や半導体メーカには,下記のような多くの共通点があるように思われる。

1. 創業者ファミリが経営に大きな影響力を維持(一部の日本企業が該当)
2. 強烈な個性を持ったトップ・マネージメントはおらず、チームまたはグループ・オリエンテッドなオペーション
3. 従業員の高い定着率
4. 半導体専業メーカではなく、巨大なシステム部門も保有
5. 幅広い分野をカバーした豊富な製品群

モトローラと聞くと、日本人の多くは携帯電話市場問題で日本に政治的な圧力を加えた特異な企業というイメージを抱くかもしれない。しかし、かつてモトローラに勤務したことがある私がインテルを代表とするシリコン・バレーの新興企業とモトローラを比較してみると、数年前までのモトローラは明らかに日本企業に近いという印象だ。特に上記の2と3に関しては、シリコン・バレー型の企業とモトローラが大きく異なる点だ。私の現在のビジネス・パートナであるスティーブ・ジーロム氏は、大学卒業後の最初の就職先にモトローラを選んでいる。彼によれば、モトローラを選んだ理由の一つは、新入社員に対する魅力的なトレーニング・プログラムが用意されていたからだったそうだ。この点でも日本企業とモトローラの共通点が浮かび上がってくる。日本企業と同じように、モトローラにも、就職後、長年にわたって勤務し、ハッピー・リタイヤメントを迎える人が数多くいた。また、前述のジーロム氏によれば、モトローラでは革新的で強烈な個性を持ったマネージャーは嫌われる傾向にあったそうで、この点も何かこれまでの日本企業に当てはまるようにも思える。確かに、モトローラには、インテルのロバート・ノイスやゴードン・ムーア、LSIロジックのコリガン、サイプレスのT.J.ロジャースのような伝説的なリーダはいない。1980年代におけるモトローラ社の成長を支えたのは、強いリーダシップを持ったトップ・マネージメントではなく、豊富な人的資源と製品群だったように思う。私は、これも多くの日本の半導体メーカに共通したことであったと感じる。

1985年の半導体不況の後、日本の半導体メーカはメモリ製品を中心に世界市場を次第に席巻するようになった。モトローラも日本メーカと同じように勢力を伸ばし、念願であった米国NO1の半導体メーカの地位にも就き、一時は米国の模範的な大企業として、モトローラの経営は大いに賞賛された。しかし、1990年代に入ると、モトローラも日本企業も、世界NO1半導体メーカの地位をインテルに譲り、その後はご承知のようにインテルとの差は開く一方の状況になっている。


インテルとの戦い
この間、モトローラには現在のインテルの地位を築くチャンスが何回かあったように思う。モトローラはアーキテクチャ、性能、利便性においてインテルのx86シリーズを凌ぐと云われた、6800、68000、Power PCなどのMPUを次々に発表したが、POSシステムなどが重要なアプリケーションであった初期の組み込み市場でも。その後の巨大な半導体市場を形成したPC市場でもインテルを超えることはできなかった。

かつて、半導体業界では、多くのセカンド・ソースを確保することが業界スタンダードの地位を握る重要な要因に挙げられていた。モトローラは6800ファミリでAMI、日立、富士通などの強力なセカンド・ソースを確保し、それなりのシェアを確保したのだが、インテルの牙城を崩すことはできなかった。モトローラは以後の16ビット、32ビットMPU戦争でもPC用業界標準品の地位を確保することができなかった。私はこの原因のひとつが、安定したMOSプロセスで高い歩留まりを確保したインテルに対して、新しいMOSプロセスの立ち上げ時に必ずしも安定した生産と供給を確保できなかったモトローラとの差があったように思う。また、MPU以外にも豊富な製品群を保有していたモトローラの巨大な組織、特に販売部門と、DRAMから撤退してMPU専業メーカとなってMPUに特化した販売組織を実現したインテルとの違いも勝敗を分けた大きな要因の一つであったとも思っている。インテルとのMPU戦争での経験は、その後のモトローラの変身に繋る結果ことにもなったのである。

次回は、その後のモトローラの大きな変身について述べることにする。

2001年8月