中村正規の「半導体業界を語る」
第11話 「インテルとモトローラ(その1)」
インテルの利益を超える売上を達成する会社は?
25年振りの再会

私は1970年代に短期間ではあったが、インテルの日本法人に勤務したことがある。昨年、私はそのインテル時代の職場の同僚と25年振りに再会した。職場の同僚といっても、再会した人は日本のエレクトロニクス業界の人ならば、誰もが知っている有名人、インテル株式会社の傳田信行社長(当時、現在は会長)だ。傳田社長に会うことができたのは、私がお手伝いをさせて頂いている組み込み関係の展示会とカンファレンス、MST99に傳田社長が基調講演のために訪れたからであった。短い時間ではあったが、傳田さんと「大昔のインテル」についての思い出話に花が咲いた。

その時、傳田さんが「大昔のインテル」を回想した本が出るという話をされていた。この本は多忙を極める傳田さんがインテル創世期の回想を口述し、それを日刊工業新聞社のベテラン記者、奥田耕士氏が文章にまとめたもので、「傳田信行、インテルがまだ小さかった頃」(奥田耕士著、日刊工業新聞社発行)という単行本として今年の初めに出版された。早速、私はこの本を購入して一気に読み終えたのだが、この本を通じて自分自身の青春時代を回想することにもなってしまった。この本で紹介されている多くのエピソードの中には、私自身も知らなかったものも含まれており、非常に興味深いものがあった。この本を読んで感心したのは、傳田さんが現在のような地位にありながら、創世期にお世話になった人達への感謝を現在でも忘れない謙虚な気持ちを持ち続けていることであった。

私のインテル時代

私がインテルの日本法人に入社したとき、従業員は全員でも10名にまだ届いていない状態だった。私がインテル在籍中に何をやっていたかといえば、当時のインテルの主力商品であったDRAMの不良品処理と言っても過言ではない。私がインテルの日本事務所に行って最初にびっくりしたのが、顧客から返品された1103という1kビットのDRAMが部屋のあちこちにうず高く積み上げられていたことだ。入社後、私はメモリ製品の担当者として、これらの不良品を米国の工場に返品する作業や、連日のように顧客から寄せられるクレーム処理に追われた。当時、この1103は世界最初の本格的なDRAM製品であったが、まだ十分なテスト手法が確立されておらず、特定の動作シーケンスで不良になるデバイスが数多くあった。また、このデバイスは、通産省の輸入制限品目に指定されており、不良品といえども簡単に廃棄する訳にもいかなかったのである。

また、8008などに使用されていた世界最初のEPROM、1702Aというデバイスにも私は大いに泣かされた。信頼性が低く、データ保持特性不良による事件があちこちで発生した。私は、そのたびに顧客を訪問し、その後で米国本社に長たらしい不良報告のテレックス(当時はファクスもなかった)を送信するため、夜中まで紙テープの作成に悪戦苦闘した記憶がいまでも鮮明に甦る。その後、インテルはDRAM市場から撤退したが、その成長の過程で私のように不良品と格闘していた人間もいたのである。

私は、インテルに入社する前にモトローラの半導体部門の日本法人で営業を担当していたのだが、インテルに入社してみて、同じ米国の半導体企業でも、両社の間ではその企業文化が大きく異なることに気が付いた。当時の私には両社の企業文化の違いをはっきりと整理することはできなかったが、今思えば、モトローラのカルチャーはより日本企業に近く、インテルはいかにもシリコン・バレーの企業らしい「ベンチャースピリット」に溢れたスマートな企業だった。

私は、上記の本に紹介されている加茂新社長の登場とほぼ同時期にインテルを去ったのだが、この短い間に初めてシリコン・バレーを訪問したこと、8080の発表に立ち会ったこと、創業者であるロバート・ノイスと顧客訪問したこと、当時の大手大型コンピュータ・メーカの中枢部にいた人々に会うことができたことなど、数多くの忘れられない体験をした。私がインテルに勤務していた当時には、現ソリトン・システムズの鎌田信夫社長や、マイクロンの古里昭弘社長なども在籍していた。

インテルの変貌、巨大な半導体企業に成長

その後のインテルの急成長は誰も知るところだ。インテルはTV CMにも登場するようになり、日本人でもインテルの名前を知らない人は少ない。私が在籍していた頃、顧客に電話したときに「インテリアのほうは、まにあっています。」と対応された時代から、わずか25年のうちにインテルは世界の半導体業界における盟主の地位に就いたのである。確かに、私はインテルに在籍していた頃に、「この会社には何かキラリと光るものがある。それなりの成長は果たすだろう。」とは感じたが、まさかここまでの巨大企業になるとは、夢にも想像しなかった。インテルの創業者であり、半導体の技術革新の進展スピードを「ムーアの法則」として予見したゴードン・ムーアも、その鋭い感性に定評があった今は亡き、ロバート・ノイスも、25年前にここまでの成長は想像していなかったに違いない。最近のインテルの業績を四半期ごとにまとめてみた。

売上利益
2000年6月期8,3003,137
2000年3月期8,0212,732
1999年12月期8,2122,108
1999年9月期7,3281,458
(単位:Mドル)

上記に示す利益は、粗利ではなく、純利益である。驚くべきことは万人の想像を遥かに越えるインテルの高収益性である。インテル最近の四半期ごとに計上される純利益の金額が他の大手半導体メーカの売上高をも凌いでいる。今年の3月期の決算発表で、インテルの純利益が長く半導体業界をリードしてきたTI社の売上高を超えたことは、私にとってはかなり衝撃的なことであった。しかし、今年6月期の決算発表は、私をさらに驚かせる結果になった。遂にインテルの3ヶ月間の利益は、3,000Mドルを超えたのである。世界第2位の半導体メーカであるNECですら、今年上半期の半導体部門の売上高は5,000億円程度だろうから、短期間にせよ、いまや売上高ベースでインテルの純利益を超える半導体会社がなくなったのである。まさに、「一人勝ち」の状態である。一方、重要な点は、インテルが年間8000億円を超えるような巨額な設備投資を行ったとしても、これは彼らにとって「キャッシュ・フロー」の範囲内ということだ。これは、巨額の設備投資資金を銀行からの借り入れや社債の発行でまかなう日本企業とは大きな違いだ。こうした財務体質の違いは、今後の新たな企業間競争に大きな影響を及ぼすことになるだろう。

強者を嫌う傾向があるマス・メディアは(特に日本では)、モトローラ/IBM連合のPower PCが登場したときや、AMDを筆頭とするインテル・クローン・ベンダが台頭したとき、最近では話題のトランスメタ社のデバイスが登場したときに、「崩れるか、インテルの独占」などといった、センセーショナルなる見出しでインテルに対抗するベンダの新製品やシェアの増加を報道してきた。しかし、上記のインテルの業績を見る限り、売上高に頭打ちの傾向は見られるものの、利益に関しては、まだメディアの期待を大きく裏切る(?)好調さを持続している。

私は必ずしも最近のインテルの内部事情に詳しくはないが、我々が知る限り、インテルは好業績の期間でも各部門のトップやスタッフを入れ替えて、常に組織の活性化をはかってきた。また、予算や投資の審査や管理も厳格に行っているようであり、無駄な予算の消費や投資は行っていないように見える。また、インターネットを含むネットワーク市場など、ポストPCの市場に対する取り組みも早く行っており、現時点でインテルが急速に衰退してしまう要素は見当たらない。 ただし、インテルの今後の業績の推移が、株式市場全体に与える影響はますます大きくなっていることだけは確かなようだ。

ここまでの成長を果たしたインテルのビジネス・モデルやマーケティング戦略は、他の半導体メーカにとって、もはや参考にはならないかもしれない。ただし、日本企業は「勝って兜の緒を締める」インテルの企業文化を大いに学ぶべき必要がありそうだ。

次回は、私が在籍したことがもうひとつの半導体メーカ、モトローラ社について話してみる。

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